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2024年6月6日(木)   甲州街道 日野宿本陣 
 甲州街道の日野宿を歩いたのは2007年5月19日でしたので、ほぼ17年前のことである。その時は午後5時を過ぎて日野宿に到着したため、本陣の門はすでに閉じられており、見物することは叶わなかった。今回は東京都に唯一現存する本陣建物をゆっくりと見物するのを楽しみに訪れた。因みに、本陣建物は文久3年(1863年)4月に建設を始めて、翌元治元年(1864年)11月に完成した、築160年の建物である。
 本陣の顔というべき表門は明治時代の写真と比較すると、元々は長屋門であったが、大正15年の大火により類焼しまい、両側の長屋部分がなくなるとともに瓦葺から軽量な屋根に変わっているため、重厚な構えが失せているのがわかる。門とはいえ、160年もの期間にわたり維持管理するには資金、維持するための技術、安全性確保などが求められるため、大変な努力が必要であったと想像される。そして、もう一つ、江戸時代には、表門の正面に本陣の玄関を構えているが、現在は表門よりも少し東側に玄関の破風屋根が見える。ボランティアガイドの方の話しによると、表門が江戸時代よりも西に移動したとのことである。五街道歩きで見てきた本陣の表門と玄関はすべて直線上に配置されていたと記憶しているので、これも相応の理由があったと思われる。
 表門を潜ると、屋敷内の道は左にカーブして立ち入り禁止となっている玄関の先には、庭に植えられた木の緑が絵画を観るようにのぞいている。玄関前を通り過ぎて、本陣の勝手口から建物の中に入っていく。草津宿の本陣は玄関から建物内に入って行ったと記憶しているので、何故玄関を閉じているのかと不思議な感じを受ける。
  

佐藤本陣表門

明治30年代の表門の写真

本陣玄関

広間座敷から見た勝手口と土間
  
 江戸時代の本陣の平面図を見ると、参勤交代のお殿様が休憩や宿泊のときに使用する上段の間(茶色)が、庭に囲われて配置されている。しかし、明治26年(1893年)の大火によって、本陣当主の佐藤彦三郎の四男が婿養子に入った有山家が焼失してしまったため、上段の間と手前の御前の間は有山家に移築されてしまった。そのため、上段の間等は現在も有山家に建っているとのことであるが、ここでは完全な形での本陣建物を見ることはできないのは残念である。その代わりに、中の間を改修して上段の間と同じ広さに改め、床の間を設けて上段の間の雰囲気を作り出している。
 本陣に到着したお殿様は玄関の式台から玄関の間、控えの間等の部屋(青色)を通り抜けて上段の間(茶色)に入って行ったという。中の間の柱の下部には鯉の彫刻が施されている。ボランティアガイドによると、本当は多摩川に生息する鮎を彫りたかったようであるが、鮎が流れに逆らって滝登りをするのはどう考えてもおかしいため、鯉の滝登りのす絵になったという。
 もうひとつ忘れてはならないのは、本陣当主の佐藤彦三郎が天然理心流の近藤周助に師事していたことから、本陣には佐藤道場が設けられていた。そして、彦三郎の妻の弟・土方歳三、沖田総司、八王子千人同心の井上源三郎等が日々、剣術の稽古に励んだという。佐藤道場の門弟二十五名により、宿場内の八坂神社に木刀2本を飾った天然理心流奉納額を奉納し、二十五名の中に沖田総司、近藤勇の名前が刻まれている。土方は奉納した時には正式に入門していなかったため、記載がない。日野宿本陣は、幕末動乱の一翼を担った新選組のメンバーが歴史に登場するきっかけとなった場でもあった。新緑の木々が茂り、静寂な庭から彼らが発する気合、木刀を打ち合う音が今にも聞こえてきそうである。 


江戸時代の本陣平面図

玄関の間から見た式台

玄関の間と控えの間

中の間

 中

中の間の柱に彫られた鯉
 

天然理心流奉納額 




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